院長プロフィール
私もつらい痛みを抱える一人の患者でした。
はじめまして、名古屋市守山区のひーりんぐはうすライブカイロ院の院長、川島秀俊です。
実は私も今、このホームページをご覧の皆さんと同様に、つらい痛みを抱える一人の患者でした。
小学生の時に、物心ついた頃からの視力障害と左目のケガから、じわじわと潜行していた身心の違和感と体調不良に気づき始めました。
眼科に通いますが目薬をさし続ける毎日で原因も、分からず何も変化のないままで、それが普通だと思ってすごしていました。
そして中学の時、頭蓋骨骨折と脳内出血で九死に一生を得ますが、
後遺症なのか身心のストレスで純粋な少年の心はいく度となく折れそうになりながら、多感な成長期はすぎていきました。
がんばり続けないと毎日を保てない自分がいました。
とにかく、ただ普通にしていてリラックスした状態、人並みのふつうの状態にあこがれていました。
自身の経験から健康にあこがれを持ち、薬剤師の道へ
高校に入るころには、もっと今より元気な理想の自分に近づきたい!といつも思うようになっていました。
絶対にあきらめたらいかん!心はいつしか健康方面へと進路を変更させていました。
従兄が特殊な相談薬局をしており、医者ではないのに身体や心のケアからよもや話まで街の赤ひげ先生的に接するその姿は衝撃的で輝いて観えました。
その後、大学は薬学部へ進み、社会人として、薬局勤務がスタートしました。
その当時は内側の溢れんばかりのエネルギーを爆発させていた時期でした。
ところが社会人2年目のオフの日これからという時に、またしてもその後の人生を左右する事件が起きます。
更なる事故から九死に一生を経て、カイロ治療家への道へ
友人と車で秘境林道探検をしていたのが台風直後で、御嶽山麓奥地で土砂崩れ現場に遭遇し崖から40m転落、臨死体験をして同乗の友人ともに奇跡的に生還しました。
しかし、これまでの症状に加えさらに全身の多重症状としてずっと続きます。
途方に暮れていた時、見かねた従兄が友人のカイロ治療家の元へ連れていってくれました。
その先生の治療を受け続けるうちに身体は少しずつ確実に回復をしていきました。
この先生とのご縁で片目が開き、治療師の世界へ扉が開かれました。
そして翌年からさっそく学びが始まりました。
薬剤師としても東洋医学的な自然派志向の漢方薬局で働きながら、30を過ぎて全くのゼロからのカイロの勉強は大変でした。
家族も増えて生活もしながらのWの勉強ですから、脳みそと身体はさらに200%フル回転でした。
無謀にも直観にしたがい36歳で開業してから毎日が修行でしたが、来院される方々にご縁があってよかった!出会えてよかった!と言っていただけることを目標と支えにしながら日々精進してきました。
更なる試練と私がお客様に提供できる健康とは…
そして50を過ぎても動き方は変わりませんでした。がむしゃらに身体と心に負荷をかけ
睡眠不足がたたって出張先で転倒し、陶器の破片で左手の平の動脈と正中神経をざっくりと切ってしまいました。
施術師としては致命的かと思われましたが、2度の手術で手は動くようになり日常の生活に復帰できました。
不思議なことにこの体験で別のスイッチが入ったようで以前よりも施術効果がよくなったという声をいただくようになりました。
最初は耳を疑いましたが、すべての出来事に偶然はなく身体と命の可能性を身をもって観せられたのだと思います。
人間の身体と心の潜在能力ってほんとうに凄いんだなあとつくづくそう思いました。
人生50年山あり谷ありの連続でしたが、
来院される方々が身体と心の潜在能力を最大限に発揮できて自信をもっている姿が観たい!
不調を訴える方々が、自分らしい健全の状態をとり戻すことができて喜んでいる姿が観たい!
どのような環境や状況だとしても、せっかく生まれてきたのだから、自分らしい人生、オンリーワンの人生に気づいて前を向いてともに歩んでいく姿が観たい!
これは今日までのあるがままの経験と有難い出会いの中で、気づかせていただいた思いで、これからも一貫して変わらぬ思いなのです。
これがありのままの今日までの私ですがよろしくお願いします。
川島 秀俊 院長プロフィール
出身 | 名古屋市北区出身 |
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生年月日 | 1960年(昭和35年) 1月16日 |
経歴 | ・愛知県立春日井西高等学校 ・北陸大学薬学部 ・アマノドラッグ ・小牧みどり薬局 ・グリーンライト ・近藤薬草店 ・日本カイロプラクティックアカデミー学園 ・JSC日本カイロプラクティック師協会所属 ・ひーりんぐはうす ライブカイロ院 開業 |
資格 | 薬剤師 |
趣味 | 登山・トレッキング・カヌー・格闘技・野球とサッカー観戦 |
家族構成 | 6人家族(妻、長女、長男、次女、母) |
好きな言葉 | 「心配ない!大丈夫!」 |